>> 11/23>> 冬がはじまる
天気予報でも知らされていたとおり、昨日からぐんと冷え込んでいる。最高気温は5℃前後。メトロを出たとたん、鋭い冷気が足元から忍び込んでくる。
向かい風のなか歩いていると、視界の端に白いものをとらえる。
錯覚?落ち葉?いや、これは間違いなく、冬の合図。
初めて見る、パリの雪。
といっても、このあとすぐに雨に変わってしまって、積もるまでには至らなかったけれど。ほんの一瞬、かすかにベルの響きが聞こえたような気がした。信号待ちをするモミの木集団。彼らも冬が待ち遠しい
>> 11/22>> 白馬の王子と永遠の反逆児
パリで一番麗しい公園:リュクサンブールに対して、19区のビュット・ショーモン公園はワイルドだ。
リュクサンブールが白馬に乗ってお姫様を迎えにくるプリンスだとしたら、ビュット・ショーモンは革ジャンでバイクを駆る反逆児。正統派とアウトサイダー。リヴ・ゴーシュとリヴ・ドロワット。
公園中央の池にある小島はごつごつした岩肌をあらわにし、島というより「山」というほうがふさわしい。長い枝を思いっきりのばした樹木は、こちらがよそ見をした瞬間に襲いかかってきそうな勢いだ。小道をそれた先に小さなほら穴があって、その奥に見事な滝が現れる。まるで水彩画のように、粗野で、簡素で、完璧な美しさ。ごうごうという激しい音にもかかわらず、辺りには静寂がただよう。
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うねうねと続く山道を登って中腹あたりまでくると、下界との差は歴然だ。冬の鋭い大気のせいだろうか、ここは彼ら:自然の生き物たちの住みかで、我々は彼らの許しを得てここにいるのだ、という印象が強くなる。その一方で、一見荒々しい風景のなかに、何者にも汚されない純粋さと、周囲を包み込む温かさが潜んでいることも知る。
女性というのは不思議なもので、絵にかいたような王子様に憧れつつも、社会に反抗するジェームズ・ディーン・タイプにも心魅かれてしまう。おとぎ話を夢見ながらも、ちょっとワルな不良少年にかき乱される妄想から逃れられない。
今日の散歩はリュクサンブールかビュット・ショーモンか? つい心が揺れる。
>> 11/21>> 金曜の夜、ルーヴルにて
rivoli通りからパッサージを抜けてゆくと、ちょうど真正面に、かの有名なルーヴル美術館のピラミッドが現れる。アーチの曲線と、規則正しい直線、そしてガラスを透かして見えるのは、かつて栄華を誇ったルーヴル宮。幾何学的な美しさと時代のクロッシングに、無条件に感動する。人混みが苦手で敬遠していたけれど、やっぱりルーヴルは素晴らしい。
金曜のルーヴルは夜22時までオープンしている。しかも、18時以降の入場は少し割安になる。このごろは日が暮れるのがずいぶん早くなって、外を散歩する時間も限らてきたので、夜のミュゼ=Nocturneを利用することが多くなった。
ルーヴルのいたるところに蔓延する、カメラのシャッターやフラッシュの洪水に辟易していたところへ、不意の感動が訪れる。
きっかけは何だったのだろう? おそらくSully棟2階、メッソーニの「バリケード、モルテルリー通り、1848年7月」。1848年6月の労働者による蜂起のあと、石畳の上に転がる無残な死体。当時 衛兵隊長をつとめていたメッソーニは、寂寥としたパリでこの光景に偶然出くわし、その衝撃を胸にとどめ、のちにキャンバスに再現した。
そして、モネの印象画。「日の出」のようないかにもモネらしい淡色の作品とは違って、白と黒のグラデーションで作られる冬の景色。微妙なトーンを与える独特の細やかな筆づかいはここでも本領を発揮して、見る者の脳裏に実風景を浮かび上がらせる。大きくカーブを描く田舎道を覆う、真っ白い雪。川面に浮かぶ流氷。薄暗い雲の下で、森は黒い影となる。純白と灰色と黒のコントラスト。
モデルを立てる肖像画と違って、風景画は「その瞬間」に目の前に広がる、一瞬の美を表現する。それは決して永遠ではなく、時間が過ぎるとともに徐々に色あせる。だからこそ過去の画家たちは、その瞬間と衝撃をとどめるべく、キャンバスに向かう。その感動が溶けてしまわないように、心の中にもしっかり刻みこみながら、必死で絵筆を走らせる。
現代の我々が芸術作品を鑑賞するとき、作風とか技法とか流派とかそういったことばかり気にしがちだけれど、そうした技法はすべて、何かを目の前にしたときに感じる「衝撃」を正確に表現したいがための手段であって、技法のために絵を描くわけではない。フィルムはおろか、デジタルカメラもなかった時代、胸にあふれる思いをとどめておくための、唯一の視覚的手段。
内からこみあげる欲求、「目の前の光景をとどめておきたい」という彼らの切なる願い。そうした彼らの思いに少しふれたような気がして、なんだか胸がじんと熱くなってしまった。夜のミュゼがもたらすセンチメンタリズムのせい、かもしれないけれど。
>> 11/19>> 鏡の国のピカソ・ミュゼ
ピカソ美術館に出現した、ダニエル・ビュランのインスタレーション。現在、一部改装中の建物の中心を、1枚の巨大な壁が貫くようにそびえている。
壁の表面は鏡になっていて、館の半分、改修工事が行われている側を覆い隠すと同時に、館のもう片側を映し出す。見方によっては、完全なひとつの建物として目に映る。
ただし、鏡の表面には微妙に凹凸が施されているので、水面に映る景色のように、像は少し歪んで見える。壁を1枚へだてて、ひとつの建物の中に、現実と虚像が同居する。
鏡の壁は館の内部を貫き、館の裏側・テラスのほうにまで伸びている。表と違うのは、裏側は鏡面が黒で塗られていて、館はブラックホールに飲み込まれたかのようだ。
屋敷の内部は(あいにく撮影禁止)、さらに複数の鏡の壁で仕切られる。鏡は床から天井まで、周りの壁とまったく同じ高さにそろえられているため、訪問者は一瞬鏡の存在に気付かず、鏡のむこうに進んで行こうとする。壁の厚みに施された白黒のストライプ--ダニエル・ビュランのトレードマーク--が、現実と虚像の境界を明確にしている。
現実と虚像が入り混じった世界で我々が戸惑っているあいだ、両者のギャップをつないでいるのが、他でもない、美術館に展示されているピカソの作品だ。つねにアヴァンギャルドであったピカソは、まさに鏡の国のアリスだったのかもしれない。写実的な世界と、シュレアリズムの世界、相対する2つの世界を結びつける、共通のパッサージュ。それはピカソからダニエル・ビュランへ、時代を超えたアヴァンギャルドのタイムトンネルでもある。